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2011年4月1日−4月3日 宮城県多賀城市天真小学校  市内の被害状況は死亡者、行方不明者197名。 避難者は一時6000人にも上りました。

この日の訪問先は多賀城市内にある天真小学校。 当時は避難所として使用されており、多いときでは1000人をこえる避難者の方々がいらっしゃいました。 訪問時も各教室、体育館で避難者の方々は共同生活をしていらっしゃいました。 現地の主婦の方にお話を聞きました。 被災直後は、家もない、食料もない、買い物もできない、寒いけど十分な毛布も配られない、電気も水道も止まっている、そんな状況が続いたそうです。 訪問当時もガソリンの調達が非常に困難で何時間も並んで2000円から3000円分しか入れることができない状況でした。 食料は最低限届いていますが、ガス、水道、電気ははいまだに十分ではなく、不自由な生活を余儀なくされていました。 多賀城市役所の方とコンタクトをとらせていただき、自治体と共同で絵画プロジェクトを実施させていただきました。 .. 詳細はFacebookページで

東北関東大震災発生から1週間後の2010年3月18日から20日まで、 物資援助のため宮城県気仙沼市、本吉町、南三陸町に現地入り。震災直後 の現地はすさまじい光景でした。

市内の中心街でもいまだ復旧の動きはみえておらず、車が建物に突っ込み、横転し、家々が崩れていました。学校の体育館、倉庫、 大きなスタジアム、各老人ホームなどの施設などを利用し全国各地からあつまった物資をまとめ、各地に運んでいました。この日から自衛隊の救援が積極的 にはじまり、多くの自衛隊員が物資の配送の作業もかってでていました。 ガソリン不足は深刻で、ガソリンスタンドは「閉店」「売り切れ」の文字が目立った。 営業をしているところでは長くて1キロ以上をこす車の行列ができていました。今回訪問した中でも最も被害が大きかった場所が南三陸町です。街の人たちは 「町がひとつなくなったよ。」とうつむきながら話してくれました。海沿いの家が並んでいた場所にはもう1軒も家はなく、建物の跡かたもない状況。「山が あそこにあって上に車停めてたんだけどあんだけ流されたよ」と500m先の車を中年男性が指をさして説明してくれました。町は山もなくなり、家もなくなり、家族もなくなり、.. 詳細はFacebookページで

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